昭和49年05月09日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方の事を、神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ、生神とは、ここに神が生まれると云う事で、此方がおかげの受け始めである。皆んなもその通りにおかげが受けられるぞ。」
教組様の御信心を頂く。それが金光教です。誰々聖人とか、ね、○○様と云うのとは違う。金光様の御信心は何処までも教祖生神金光大神の信心を頂くと云う事にあります。ですから、それを頂いて行く所に、今日のこの十八節がある。「皆もその通りのおかげが受けられる」と云う事になって来るのです。また受けて初めて教祖金光大神の信心の素晴らしさと言う事になります。
またそれを表す事それを実証して行くと云う事が、だから金光教の信心を頂く者の責任でもあると云う風に言うては、ちょっと不穏でしょうか「そげなおかげ頂かんでよか」と云う様な事では無いのです。矢張り目指す事はそこなんです「この方ばかりではない、この方がおかげの受け始め」と仰る「皆もその様なおかげが受けられる」と仰せられるんですから、矢張りそれに一歩でも二歩でも近付かせて頂くと云う事だと私は思うです。そこでならここで言うなら私がそれに一生懸命精進させて頂いておるのです。
そりゃ曲がりなりにも出来ませんけれども精進させて頂いております。ですからなら皆さんはまず、教祖生神金光大神とまでは行かなくてもです。合楽の教会長大坪総一郎の信心を本気で頂こう、マスターしよう。それはもう直接こうして日々私の信心を聞いてもらえる。また私がおかげを受けておる事を表しておる。言うなら教祖の神様が、成程嘘を仰らんのだと云う実証を、日々皆さんの前に証を立てておるのです。ね。ですから皆さんもだからその通りのおかげが受けられる。
と云う事になるのじゃないでしょうか。又その通りのおかげを頂いて下さってです。私の信心を世の現して下さる事も出来るし、私の信心を「親先生が言いなさった事は嘘じゃない、本当だ」と実証して下さる事になるんです。証を立てて下さる事になるのです。教祖の神様の言うならば、心ばえとでも申しましょうか所謂実意丁寧神信心の、その実意丁寧神信心を現される所の所謂心の御状態。又はなら合楽で言う合楽の教会長、大坪総一郎のなら、心の状態・心ばえ「親先生のここが素晴らしい」。
昨日の御理解じゃないけれども、それこそ欠点だらけですけれど、なら私の言うならば、おかげを頂く意味においての長所ですよ。成程ああ云う心の状態がおかげをキャッチ出来るんだなと、おかげを受けられるんだなと云う事を、皆さんがやっぱり検討して下さらなきゃならない。親先生のあれだなとおかげを受けられるのは、と言う様な物を皆さんの物にしておいでなければいけません。
そこでなら「皆もその通りのおかげが受けられる」言うなら、大坪総一郎の受けておるおかげを、皆さんも、受けて頂く事が出来ると云う事。お取次を頂きお願いをする。万事万端の様に御都合お繰合わせを頂きました。成程そのおかげも有難い。大きな意味において、お取次を頂いておる日々。いわゆるそれを合楽の信者・信奉者と云う事になりましょうか、心の中には何時も親先生があり、何時も親先生のお取次を頂いておる。毎日毎日御参りをして来て、頼んだ。願った。
と云うだけではなくて、大きな意味でお取次を日々頂いておられるのが合楽の信奉者の皆さんの、それがそれぞれに信心生活に現われて来る訳なんです。だからこそなら直接お取次頂いておる訳じゃないのだけれども、万事万端の上にです。合楽でおかげを受けておる様なおかげを皆さんのお宅でも、受けて現して行かれる事が出来るでしょう。それが密なる物でない事。そのおかげの実感が薄い事。是は否めません。
皆さんの場合言うならば、金光大神の祈りの圏内と云うと大きいですけれども、大坪総一郎の言うならば、お預かりしておるとこの合楽教会にご縁を頂いた人達の上にです。合楽教会長が祈っておるその祈りの圏内の中にお互いがあるから、そう云うおかげを受けられるのです。今日は東京から嫁の両親が見えると云う事です。もう前々から行く行きたい、と言うてもう見えるかもう見えるかと云う様な状態でしたけれども、何かに差支えが出来て来れなくて。
昨日今日博多に十二時ごろ着くから、と云う電話があった云うのです。嫁がここにお届けに来ましたから申しました。「良子さん、本当に人間心使う事いらんな」と、九日の十二時、これが例え皆さんも御承知の様に、ここ最近はずうっと今月に入って、ええもう様々な行事で一杯である。私もながら若先生もずっと外に出て、外の御用をしております。昨日が、昨日までええもし昨日であったら丁度その時間に。
北野の教会の大祭で御座いましたから、同時に私もその時間に丁度、見えるのに家を明けんならん、佐田さんとこの謝恩祭、久留米の御大祭でしたからね。丁度今日は私も家に居ってそのお客さんを待つ事が出来る。若先生も博多までまあ栄四郎の車か何かに乗って、迎えに行って上げる事が出来る。家には何にも行事があってない。そりゃまた、明日明後日ずっとありますよ、けれどもそう云う中にです。
なら「この日が良かけんこの日に着きなさる様に」と誰も言うたこっちゃないとです。ならそれがね、はあそれは今日だけなら分が良かったです。でそれで済むじゃろうけど、合楽の場合皆さんが見ておられる通り、何時もそうでしょうが。結婚式霊祭結婚式と、そしてこの関係の教会の御大祭、もうずっと五月は、もう引き続きなんです。だからねならその一事を見てでもです、神様の言わば御守護の中ですけれども、教祖金光大神が教えて下さった教えを行じて行く所にです。
そう云うおかげの頂けれる。只人間業とは思われない「それほんなこっちゃあるですか」と言う様なおかげを、私が受けて現しておる。それを皆さんも見たり聞いたりしておいでられる。そこにね互い違いが出来たり、不自由をしたり難儀をしたりする所にです。只今皆さん修行中と云う事と同時にです。是はまだ、私共の信心が足りんからじゃと言うものはです。愈々私の信心を言わば目当てとして、お進みにならにゃいけないでしょう。いわゆる私は私の、金光大神の言われる事はです。
この程度ではあるけれども、本気で頂かせて頂いておる所からです。成程その通りのおかげが受けられると云うおかげを私は受けておるんだと自分で思います。昨日佐田さん所に、お引き寄せを頂いて今度出来ました。お婆ちゃんのお部屋と云う事で出来ました。それがもう本当に一々、一から十までお取次を頂いて、御神意のまにまにのおかげと云う物は此の様なもんだろうかと、皆さん御参拝になった方はそれを実際に見聞きして来られたから、お判りになる通りでありました。
丁度お神様のお部屋が中央にきて、そしてお婆ちやんの部屋の方の障子を取り払うと、それが丁度二十二畳のお広間になる。しかももう一事が万事の上に本当に御恩恵を頂かなければ、こんなおかげは現されないと云う物を感じる程しのおかげを、佐田さんが言うならば現しておられる。そこで親先生の信心には手が届かんと言うならばですね、私は佐田さんがならどう云う信心をされておるかと云う事を、皆さんご覧になるともっともっと今度はその教祖生神金光大神の信心が。
身近になって来りゃせんかと思うんです。そこでなら佐田さんの信心の所の一番のその特徴、その佐田さんの所と同じ通りのおかげが受けられると云う事をまず感じられるなら、まず一家を上げての信心だと云う事です。是は、どうでも勢が揃わなければ、本当の意味においてのおかげになりませんです。それはなぜかと云う理由は色々有りますけれども、どうしても、やはり、家族中が勢を揃えた信心にならなければいけません。しかも、只家族中で信心してるのじゃない事がです。
どんな事であっても問題であってもです。信心で解決するまでの信心の家庭でなからねば駄目である事です。例え一家中が信心しよっても一人が右の方へ行きよる、一人が左の方さ行きよると言った様な信心では駄目です。それはあります問題がけれども結局は、親先生がどげん仰るかと云う事で、答えが出て解決していやそれがおかげになって行きよると云う様な生き方、是はまあ、私は佐田さん所のまあ、一番の特徴だと思うんです。それは、なら、居間が一部屋出来た。
増築されたというだけでなくて、日々佐田さんがお仕事の上に現しておられるおかげ、または家族の上で現しておられるおかげ、そしてなら家族の者がです。こと神様と云う事になったら、一にも神様二にも神様、と云う生き方で進んでおられると云う事です。本当言うたらですね、合楽で御信心を頂いたら、もうそうならなければおられん程しの教えを頂いとるはずですけどね。けれどもただ何処か狂っておる。何処か焦点が間違っておる。何処かおかしい。
さあそのおかしい所を一つ皆さんが、なら佐田さんが佐田さん所の信心を見て佐田さん所が完璧と云う事じゃありませんよ。けれどもあのように、私が言うておる事を行じてあの様に、現しておられると云うその通りのおかげが、まず佐田さんの所迄のおかげを受ける為には、なら一つ身近な佐田さんの信心を、私はやっぱり検討して見る事、研究して見る事だと。あちらのお婆ちゃんの心ばい、あちらのご主人の恭造さんの、言うならば信心の頂き方。あちらの奥さんの又は子供たちまでもの。
なら信心のその在り方と云う物をです。愈々合楽の信心、合楽の教えを頂いて、家族中の者が言うなら磨きを掛ける事に、焦点を置いておると云う事。私の信心が完璧と云う事でもなからなければ、佐田さんの信心は尚更完璧であると思われんけども、教祖様は嘘を仰らないと云う事実を私が現しておる様にです。私が親先生の言いなさる事に間違いない、親先生の言う通りしたらこんなおかげが受けられると云う事実をね、言うならば私の言う事を実証しておられるのが、佐田さん達だと思うんです。
そこでなら佐田さんはどう云う信心をしておられるかと云う事が、皆さんには一番身近ではないかと云う風に思うんです。今日私はね「その通りのおかげが受けられる」と云う事に力点を置いて聞いて頂きました。成程「俺達がおかげ頂いておらんはずじゃね」と夫婦で話し合える「ここがやっぱり俺達のおかげ頂き切らんとぞ」と、話合えにゃいけません。「成程こげな汚い心でね、俺達が例え一家中毎朝参りよるばってん、違うもんねやっぱ」とそれが判らにゃいかんです。
昨日も私が申しました。最近合楽で大祭、この方のおかげを皆さんが受けて現しておられる事は、もうどげん例えば疑い深い者でん、「本当にやっぱあんたどんが信心しておるけん違うの」と云う様なおかげが現われておると云う事実です。是もまだね本当に成就しておりませんから、誰やら彼のことは申されませんけれども、もう皆そう云う、その働きをイマ受けておられると云う事です。昨日私が安東さんの例を取ってお話しましたが、もうとてもとても本当に神様の、言わば神業と云う物の。
その凄まじゅうごたる働きで、おかげを受けておられると云う事。例えば昨日一昨日の、ある問題でもういかん、もう愈々駄目だ時間的にももう駄目だ。「もうお父さん合楽へ今から二人で御参りする外無いですよ」と言うて自動車に乗った途端じゃったて、おかげを受けたのは、今度その本当に瞬間じゃったと云う事です。そこからだぁと道が開けてきたんです。例えば昨日大和さんがお届けされる様に、今度ご普請を思いたっておられます。それで農協からか纏まった金を。
それは田地田畑を持っておられますから、抵当にすりゃ誰でも貸してくれるはずなのですけれど、貸してくれるはずじゃったのが、何とはなしに愚図愚図しておる訳です。それを前に聞いておったある方が、「あんた方の家はどげな事になったの」「それがあんた農協がこんな事じゃから」ちゅうたら「そんなら私の金ば使うとかんの。そんならあんた利もいらんけんで、どんくらいいんの」「何百万」「ほんなら、そん位なら丁度私がもっとるけん、それば使うとかんの」と言うた人が現われたんですよ昨日。
そこにせんなら日頃皆さんが御承知の通りの大和さんの信心をやっぱり思うて見なきゃいかんです。愈々の時には成程だからそう云う例えばおかげを、まあ頂いて現しておられると云う事はまあある意味において、成程合楽流だなあ合楽的だなあと思うんです。だから、そう云うおかげも有難いがです。昨日私あちらのお祭に行って、第一恒例の佐田家の謝恩祭、一年中のおかげを受けて来た事のお礼を申し上げるお祭、次に本当に神ながらに、此の様な立派な見事な隠居所の方が出来た。
しかも本当に切って継いだ様な素晴らしい御働きの中におかげを受けた。その増築の御礼を申さして頂いておりましたら、神様から頂くのは『大きな鯛のそれは生きた鯛です、それをこう麻の紐で絞っちゃあるです。だから絞っちゃあるけども尻尾の所がぐぐっと動きよっちゃ。是が今日の佐田のおかげぞ』とこう言うとる。まあだおかげば絞っちゃある。まあだ本のことなら、まあだ言うならば全館を新築にしたっちゃ良い位の、言うならば余裕が例えばですよある所をです。
だから是はまだおかげの抑えたおかげ、もう内輪のおかげこの麻の緒ども切ったらまあ、それこそ生き生きとこう踊り出すごたるおかげになる。神様がおかげの方をじっと抑えちゃる、と云う様なゆとりのあるおかげなんです。さあギリギリさあもう走り込まにゃ親教会に、教会にお願いに早よ行かにゃ、と言った様なそのギリギリばっかりのおかげのじゃなくて、行き当たりばったりのおかげじゃなくてです。その行き当たりばったりのおかげもです。そりゃもう本当に目覚しいおかげが最近表れておるです。
合楽では。けどもそうじゃなくってです、おかげをずーと抑えて行けれる位のね、おかげを現わして行きたい。それを例えば、なら、ある意味において見事に、佐田さんはおかげを受けて、昨日その事がお礼のお祭りと云う事にまでなったと云う事。そこでなら佐田さん達の信心は、と云う事にならなきゃいけないでしょう。あの通りのおかげを受ける為には、先ずは親先生とは行かんでも、佐田さんなら佐田さんの信心をです。おかげは内輪に内輪に頂いておっても。
脇から見たらホオーッと言う様なおかげでなからにゃいかん。てんでもう十もしか出来んとに、十一のおかげばもらおうごたる、十二のおかげば願って行きおるけん、何時もきつかです。不安ですそれでは。そう云う間違いのないおかげを頂いておってもやはり不安です。「その通りのおかげが受けられる」と云う事をです。教祖様そして言うなら私、そして今日は佐田さん、合楽の信心をある意味において、一家中が挙げて頂いて現わしておられるおかげの状態と云う物をです。
皆さんもやっぱり現わして行けれるんだ。それにはまず一つなら佐田さん達の信心振りまたは心映えそらあの様に神様ちゅうはですね。本当のもう言わんでん願わんでん必要な事だけはちゃんと下さるとですよ。それこそ鵜の鳥ではないけれども、成程頂いた物全部はきだしてしまう。けれども必要なものだけはちゃんと与えておられるのが、今の佐田さんところです。それけんと言うて可笑しなとこはなかでしょうが。
調度品一つ一つにすれ、何からかにまで不自由のなさそうな、それでもほんならあの調度品一つ一つがみんな御神意を頂いての、求められた物ばっかりなんです。勿論着物一枚だって家具一つだって、お取次を頂かなければ買われません。そう云う所も私は手本にしなければいけないと思うですね。是はもう私の金そして自分でガンガンある間は買う。造る。神様にどう云う様な深い御心慮が、御真意があるやら解らんのですから、そう云う所も折角合楽におかげを頂いておるのですから。
合楽でならそれが出来るのですから。まあ「その通りのおかげを受けられる」と云うおかげをどうぞ、昨日あちらのお祭におかげを頂け得なかった人は、まぁあちらに行かれたついでに、一遍寄ってみてはあ、成程是が神様の御恩恵によるおかげだなあと云う物を見ておいでられりゃ尚更はっきりすると思うんです。そりゃねおかげの類型と云う物があります。色んな型があります。形合楽でも。ですから一概には言えませんけれども、ならここでは先ず私がおかげを受けて現しておるおかげを頂いて欲しい。
そうして私の言うておる事を聞いて、そして神ながらに現しておられる人達の信心の姿と云う物を見て、その通りのおかげの受けられる様な、一つまあ信心をして頂きたい。それが私が、金光大神が嘘を仰らない。親先生は嘘を言う御取次をしておられない。ここにまだそれが現われていないのは、まだまだ私共の信心が足りんのだと云う、思い方が間違っておるんだ。行いの方が間違っておるんだ。と云う風に愈々精進の心をそこに焦点を置いて、おかげを頂いていかなければならんと思うですね。
どうぞ。